ダイヤダイヤ・*:..。生きる伝説 吉田拓郎の歌を聴こう。..:*・ダイヤダイヤ

2013年09月27日

楽天初優勝

球団が設立されてからいつも馬鹿にされてきた。
あまり物が集まったような球団で、最下位が低位置。
優勝なんて言葉を口にしたら笑われる、そんな球団だった。

でも投手には魅力があった。
岩隈がいて田中が入団した。

傷だらけの闘将星野がやってきた。
そして震災。
監督の、選手の、ファンの、様々な思いが優勝を掴み取った。
無情な野球へのリベンジ、理不尽な災害への叫びが胸に響いた。

今だから言える…嶋スピーチによる重圧「優勝で救われた」
涙が次々とあふれ出る。ウイニングボールをつかんだ楽天の嶋がマスクを放り投げ、田中に抱きつくと号泣した。
 「時間が止まったように感じた。いろんな思いがあるし、ここまで頑張ってきた思いがある」

「見せましょう、野球の底力を!」。11年3月11日、東日本大震災が発生し、球界は開幕問題で揺れた。4月2日の復興支援を目的とした慈善試合前には感動のスピーチを披露した。しかし、これが嶋にとって重圧となった。「ファンは一番優勝を望んでいる。逃げたいと思ったこともあった。しんどいと思うこともあった」。チームが低迷時には、「おまえが底力を見せろ」とヤジが飛ぶこともあった。あれから2年半がたち、やっと被災地のファンに優勝をプレゼントできた。

選手に愛され星野監督7度舞い「オレは何か持ってるね」
11年秋から岡山県倉敷市で球団初の秋季キャンプを敢行した。球団初年度から予算の都合で実施されていなかったが、指揮官が「俺が金を出す。日程を組んでくれ」と球団に直訴した。キャンプ中は選手同様に朝5時に起床。時には自らバットを手にし、40歳以上も年が離れた選手にノックの嵐を浴びせた。芽を出す土壌を自ら耕した。「若者を育てていくのは男のロマン。あの時“磨けば光る”と思ったやつが2人いた。鈍く光っていた」。それが、当時無名だった銀次と枡田。今や「星野チルドレン」として中軸を担うまでに成長した。

 「孫と言ったら年を取りすぎているし、子どもにしたら若いしなあ」

今月15日。仙台市内の自宅を、斎藤と松井のベテラン2人が訪ねてきた。座骨神経痛などに苦しみながらも必死に闘う指揮官のために、懇意の整体師を連れてきてくれたのだ。腰をもまれながら、星野監督は思った。「俺は幸せ者や」と――。

【楽天】マー絶叫初V!魂の8球オール150キロ超えKK締め
「日本一の投手になりたい」とプロの門をたたき、1年目から11勝をマーク。5年目の11年には19勝を挙げ、沢村賞など投手タイトルを総なめにした。「日本一の投手」になったが、それでも物足りなかった。「本当にいいシーズンだったと言えるのは、チームと個人と2つそろっていい成績を残さないと、心の底から喜ぶことはできない」。この年、リリーフ登板で20勝を挙げることもできたが「中継ぎで拾って20勝したいとは思わない」と拒否。5位に沈んだチームで、20勝することは意味がなかった。

シーズンが始まる前、沖縄・久米島の海辺でこう絶叫した。「WBCで世界一、シーズンで日本一。2つの頂点を目指します。全国の野球ファンのみなさんに一言、言わせてください。今年の野球界の主役は、俺たち楽天だ!」。世界一こそかなわなかったが、言葉に偽りはなかった。「球団創設以来、いろんな人の思いもあるし、今シーズン、誰も優勝すると思ってなかったと思う。いい意味で期待を裏切れて良かった」

【楽天】星野監督「震災でハートに火ついた」定位置Bクラスから3年で頂点!
 田中の最後の黒星となった昨年8月19日の西武戦(西武D)の試合から数日が経過した日だった。「俺に、そのボールがあったら30勝できる。今のままじゃ、おまえは怖くない」。あれ以来、田中が変わった。「無敗で来るなんて誰が想像してたんや」。力強い投球がよみがえり、前人未到の領域まで突き抜けた。

 今年のキャンプイン前夜、コーチ、選手、スタッフ全員の前で「今年は優勝するぞ」と宣言した。就任3年目。ナインの前で「優勝」という言葉を口にしたのは最初で最後だった。周囲には「Bクラスなら切腹」とまで漏らした。「優勝の可能性は0%だと思っていた」。そう振り返ったが「無理だと思っても、理想は持っていないといかん。高望みであっても、俺が理想をもたなくてどうする」。

 04年オフだった。近鉄が消滅し、楽天が新規参入した。「言い出しっぺは俺なんや」。球団再編の動きがでた頃に、食事会で三木谷氏と顔を合わせた。「あんたのような企業こそ(球団を)持つべきだ」と進言すると「そうなったときは、いろいろと教えてください」。当時は夢にも思わなかった監督就任を、10年オフに引き受けたが、就任直後に待ち受けていたのは予想できない出来事だった。

 11年3月11日。東北を大地震が襲った。「言葉は悪いけど、震災で燃えた。あれでハートに火がついた。乗り越えるものにしか、試練はやってこない」。現役時代、目をつり上げて巨人に立ち向かい、万年Bクラスの阪神の監督を引き受けた時と気持ちは同じだったが、震災直後のチームはバラバラだった。

 震災当日、チームは兵庫・明石にいた。指揮官は「野球選手は野球をやってナンボ」。仙台に戻ったのは35日後のこと。一日でも早く仙台に戻りたい選手と、開幕直前の大事な時期に野球を離れることを恐れる指揮官の間には確執も生まれた。「選手と溝ができていることは知っていたけど、気にもしなかった」。言葉とは裏腹に、苦悩は大きかった。

 「勝つことがすべてだった。育てるよりも、いま勝って喜ばせないとアカン。でも、やっぱり勝てなかった。1年で若いヤツを出してたら、もうちょっと早く今みたいになっていたのかも分からん。チーム作りが遅れた。でも現有戦力でやるしかなかった」。1年目が5位、2年目は4位。CSにすら出られなかった。2年とも、シーズンオフに受けた健康診断で知らないうちに、胃に無数の穴が開いていた。

 監督として中日、阪神に続き、3チーム目のリーグ制覇。三原脩、西本幸雄に次ぐ史上3人目の偉業となった。「一度くらいは戦力が整っているチームで監督をしてみたいと思っていたけど、監督生活の最後に引き受けたチームが、一番の貧乏くじだった」と笑ったが、足掛け3年で球団初年度からBクラスが定位置だったチームを最強にした。中日、阪神ではいずれもリーグ優勝止まり。悲願の頂点へと挑む。

楽天初優勝。チームをひとつにした「8月のある出来事」
なかでも頑張ったのが、4番手で登板した長谷部康平。2日前の8月22日に母親を亡くし、当初は「ロッテはいい左打者が多いから、穴をあけたくない」とチームに残ることを希望していました。最後は星野監督の「行ってこい」のひと言で、23日の通夜に参列することになり、24日の朝、実家のある岐阜から仙台に戻ってきました。

 当日の試合前、球場で本人に会った時に「いろいろと大変だったね」と声をかけると、「やるしかないです」と気丈に振る舞っていた長谷部。しかし、8回に登板し打者2人を抑えベンチに戻ってくると、緊張が解けたのか、涙が止まりませんでした。ベテランの斎藤隆さんが長谷部のもとにかけより、肩を抱く姿が印象的でした。魂のこもった長谷部のピッチングが、チーム全体に一体感をもたらしたと、私は思います。

 その斎藤隆さんからウイニングボールを手渡された長谷部は、「母親に頑張っているところを見せたいと思って投げました。いいボールがいったと思います」としっかり前を見つめていました。

山崎武司が語る「楽天初優勝と野村野球の遺産」

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posted by pinknokonpeito at 11:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 野球
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